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2007年06月23日

楠木 正成

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楠木 正成 像  千代田 皇居前広場

楠木 正成(くすのき まさしげ)
(1294年−1336年)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。

[生  涯]
河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれたと思われる。
前半生はほとんど不明で、日本史上これほど有名でありながら出自がこれほど謎に包まれた人物はほかにいないと言われる。
様々な歴史家による懸命な研究努力にも拘らず、正成が確かな実像として捉えられるのは、
1331年(元弘元年)の挙兵から1336年(建武3年)の湊川での自刃までのわずか6年ほどにしか過ぎない。
歴史に登場した期間が短いのにもかかわらず正成が国民から敬愛されてきたのは、後醍醐天皇に対する彼の忠誠心のためでした。

後醍醐天皇の笠置挙兵に呼応し、赤坂城で幕府の大軍を迎え撃った正成は、敗北したもののその奇想天外な戦法で、戦略家としての名を一躍高めます。

その天才的な奇才が最も発揮されたのは、千早城に篭城し、わずか千人の軍勢で幕府の大軍を釘付けにしたときでした。
このときの戦法が、野伏を巧みに使うといった、いわばゲリラ戦法でした。
刀や槍でわたり合うといった定式を無視、城の上から大きな石を転がしたり、熱湯を振りまいたりもしたとか。
こうした戦いぶりから、正成は名のある武将の血を引く者ではなく、当時「悪党」と呼ばれていた土豪の出身ではないかと推測されています。

常識にとらわれない新しいタイプの武士といえる正成も、忠義を重んじるという点では筋金入りの古強者でした。
湊川の戦いに討死覚悟で出陣した正成は、後醍醐天皇に忠誠を尽くし、弟正季ら一族郎党と壮絶な最期を遂げました。


[後世の処遇と影響]
南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でさえも同情的な書き方をされている。
理由は、戦死した正成の首(頭部)を足利尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還していることからも推察できるように、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていた為であろう。

今日で言うゲリラ戦的戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井(由比)正雪も南木流軍学を講じていた。

※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び
ホームページ「今昔夜話」から抜粋


[紙  幣]
小額日本銀行券(い五銭券)
(1944年)
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戦局の悪化により、補助貨幣の素材金属が極度に不足したための緊急措置として初めて「円」未満の10銭、5銭の小型紙幣として日本銀行券が発行された。
楠木正成の銅像が紙幣(い五銭券)の図柄となっています。

ホームページ「日本銀行金融研究所 貨幣博物館」から


[感  想]
これは、すごい迫力!
躍動感溢れる像です。
感動しました!
銅像の作者を調べると、
有名な彫刻家、高村光雲作です。
紙幣の図柄にもなっていますし、
やはりこの銅像は、ちょっと別格です。


撮影日:2007年6月4日
評 価:☆☆☆☆☆
(満点です!)
分 類:武 士
posted by ken at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 武士 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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